黔驢之技

MHFや中国史、野球などについて書いていく予定のブログです

『史記』

 誰にも望まれてないかも知れないし、もしかしたら紅葉あたりが暇な時に読むだけになるかもしれない中国史記事シリーズ第一回。

 とりあえず取り上げる史書や著者の来歴、略歴についてつらつらと書いてまいります。

 以下、用語も徐々に解説を入れてまいりますので、ここが分からないなどあれば御要望あれ。

どんな人が書いたの

 西漢(前漢のこと)の、天文や災害の異常や歴史を記録したりする官についていた司馬氏が二代で書き上げたことになっております。有名なのは息子の司馬遷の方ですね。中島敦の小説で有名な李陵を擁護して武帝にチンコを切られました。そのせいか李陵の対匈奴攻防戦は原文でもやたら気合が入った文章になっています。李一族周りは大体物凄い気合の入りようです。余談ですが空の馬車を用いて障害物にして騎馬の足を止めて遠くからボウガンでボッコボコにするというえげつない手法は、戦国趙の李牧(キングダムの敵国イケメン軍師様)が作り上げた騎馬民族を防ぐセオリーです。この人は同族ではないみたいです。(隴西の李一族は秦人で、キングダム主人公の李信の子孫だそうですからね。揚雄の「方言」によると、西漢代はまだ言語その他で戦国の各国が相当隔絶されていたようです。)

 ちなみにこの戦法は後に曹操なども国内戦で使ってました。

どんな本なの

 大体神話の御世から武帝時代までを紀伝体という、後の中国の史書の基本となる書き方で綴りました。秦代については前代であるから貶されていると簡単に解釈される方が多いですが、実情としては始皇帝はそんな簡単には括れない非常に複雑な描かれ方をしています。後に始皇漢武などと併称されて同一カテゴリに入れられがちの西漢武帝の時代に生きた著者である司馬遷は、具体的な筆法の模範を持たずに、この手法が継承されることを想定せずに書いていることを忘れてはいけません。始皇帝はある程度武帝を間接的に批判する目的がまざった描写となったのが実態であるようです。また、近年になって始皇帝の功績とされる事業の中で一部は二世皇帝の時代になされたものが混ざっていることが分かってきました。毀誉褒貶様々なところでなぞらえられたところ、また教訓話としての筆法によって功績が滅亡の前代に移管されることがあると思うので、そこら辺は注意して読むべきでしょう。