黔驢之技

MHFや中国史、野球などについて書いていく予定のブログです

『戦国策』

 間髪入れず中国史シリーズ第二回。

 まずはこんな感じで後に書く記事のソースとなってくるあたりの由来をはっきりとさせていきます。

どんな人が書いたの

 戦国の諸子百家の時代、記録として様々な人が書いた書物があったようで、それを分かり易く編修して一つの本に纏めたのが錬金術師として(ある筋に)有名な劉向です。様々な業績を残しています。『列女伝』という書物を記して「外戚禍」を最小限にとどめようと努めたり、色々人とは違った感性をしていたみたいですね。この人の息子が王莽の外戚かつブレーンでしかも博物学に秀でていた劉歆となります。おそらく王太后が璽を投げつけ禅譲に反発したことも、『列女伝』に影響された面は多分にありましょうから、当時の情勢というのは実に皮肉なものであったと思います。更に皮肉なのは、その劉歆が変名の劉秀という名前を記した図讖を用いて反乱を起こした上、新野閥の流れ的に王莽の寵臣の一人になりそうであった光武帝(同名の劉秀)が王莽を裏切ったときに再利用される流れですが。

どんな本なの

 所謂戦国時代を描いた本であり、この書名がむしろ時代の呼称の由来ともなりました。ただ、あくまで記録ではなく遊説家として活躍した人々の意見が中心となって編纂されている面はあるようです。また、あくまで編纂であるため、時代性に意見が左右されている司馬遷が書いた『史記』よりも信頼性及び客観性が高いという意見も根強くあります。